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蜜柑山の急斜面

日記です。

メモ

演劇

引用:

「私は数え年二十九の時、独りでシンガポールの渚に立った。そして突然何とも知れん懐かしさの情緒に襲われた。私は此の時以来日本民族と云うものの、現世を越えた実在を信じている。

 数学者岡潔の、雑誌「太陽」に掲載された伊勢神宮特集の巻頭の文章の一節である。これ以上単純、明快に信じることはできないのではないかという感慨をいだかせる、信念のことばである。

「終戦後天照大御神は再び天の岩戸にお隠れになった。だから日本の天地には愴然として真の喜びがないのである。私達は大御神に再び岩戸から出て頂く為、身命を抛って働かなければならない。」

『越境する力』鈴木忠志

 

 

ですから、あらためて演劇の基本とは何かと言えば、戯曲でもなければ、俳優が舞台上で演技をすることでもない。孤がフィクショナルな集団、仮構されたルールをつくり、それと関係をもつことなのです。そして、その集団を成り立たせている共同性の質とルールが演劇という行為の質を決めてしまうというのが私の立場です。…

そうしますと、営業マンが他人に商品を説明する行為はフィクションではなく日常的な行為で、劇場で俳優が身体を見せ言葉を喋ることがフィクションであり、非日常的な行為としての芸術であるという視点はありえないことになります。つまり、何がフィクションで何が日常行為かというような比較はありえないのです。あるのは何が演劇のフィクションなのかということだけです。…つまりどのような意識で集団=ルールをつくり、孤がどのようなレベルで個人となったかをきちんと分析してその特質を語ることができたときに、演劇のフィクションと呼べるものが成立するのです。それが演劇の集団性というフィクションです。

この集団性の特質をおさえない演劇は、結局は孤人の特殊性を売りものにするショウ・ビジネスという範疇のものになってしまう。もちろん、…ビジネスだからといって、それが演劇行為でないとはいえませんが、フィクションとしての演劇的集団性をもたないという点で、表現行為の質が異なってくるはずです。

 

こうなりますと、評判になる演劇はほとんど劇団のピッチャーともいえる演出家の名前によってです。しかし、これはスタンドプレーともいうべき演出家個人のアイディアがたまたま素晴らしかったというようなことが多く、フィクションとしての集団の力が発揮されたものではありません。そして、そういう舞台は持続を前提とした集団作業というより、スター演出家のショウともいうべき商業主義から生み出されることが多いと言えます。

しかし、私は演劇の表現行為の素晴らしさというものはそうしたものからは出てこないと思っています。そういう演劇においては、どんなに才能のある人間が出てきても、やはり孤人のアイディア以上に見えません。演劇の表現行為の凄さは、まさしく集団の力を帯びるところで、孤人のアイディアの集積であるように見えないところにあります。

『演劇とは何か』

 

と、このあたりまできて、「いのうえひでのりのび太説」や、クドカンがエッセイで、「俳優、脚本家、映画監督などいろいろやってるけど、結局自分は「劇団員」」だと書いてたことなどを思い起こすなど。

新感線や大人計画の役者さんたちが、いくらテレビスターになり映画スターになり、タレントとしても華やかに活動していても、やっぱり「演劇の人」にちゃんと見えるのは劇団があるからなのかも。どちらの劇団も長く続いているということは、演劇という遊びのためのルールを上手く作ることに成功したんだ、きっと。(自分なりの納得感)

秋浜悟史さんのことが知りたくなってきた。