蜜柑山の急斜面

日記です。

芸術

なんとなくわかってきた。わたしが芸術作品を見るときは、歴史の本を読めばわかるような気づきとか、ニュースやノンフィクションでカバーできるような政治的問題への関心とかを期待しているのではまったくなく、こう、純粋に身体的な体験を求めているのだ。異空間に迷いこんだような感じとか、二つの場所に同時にいるような感じとか、時間の進み方が急に変わってしまうような感じとか。「月が二つある世界がある」ことを信じさせてほしいのだ。そういう作品は非常に数が少ないけれど確実に存在していて、現在京都で開かれているパラソフィアで言えば、スーザン・フィリップスの《三つの歌》と《インターナショナル》、田中功起《一時的なスタディ:ワークショップ#1「1946年〜52年占領期と1970年人間と物質」》。

《一時的なスタディ》がすぐれているのは、「へえ、そんな歴史(京都市美術館が戦後、米軍に接収されていた/1970年に「人間と物質」展が開かれた)があるんだ」と思わせるからじゃなくて、「うわ、今わたしは、2015年のこの展示室にいながら、去年高校生たちがワークショップをしたメインホール、人間と物質展が開かれた1970年、米軍に接収されていた戦後のある一時期、複数の時空に同時に触れている! なんなら米軍の兵士たちの気配すら感じる!」という体験を与えてくれるからなのです。あくまでもわたしにとっては、ということだけれど。

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というわけで、やっぱり美術展は楽しいから、みんな見に行ってみよう!


PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭

 

追記

こう言うと怒られるのかもしれないけど、戦後に米軍に接収されていたという京都市美術館の来歴はその体験をもたらすための素材にしかすぎない。でも、考えてみればそれは当たり前で、だって、その歴史を掘り起こすことが主眼なのだったら、普通に歴史家が調査してまとめたものを発表すればいいわけで、書いたものが面白ければ話題することはできると思うし、そもそも現代美術展にそれほどの拡散パワーがあるわけでもないから、それがアートになろうとならなかろうとリーチできる範囲にそれほど違いはないと思う。大河ドラマにでもなれば別だけど。だから、美術作品について何か言うときに背後にあるテーマとかで説明しようとする人の気持ちがよくわからん。いくら政治的・倫理的に正しい作品でも、体験がつまんなかったらそれはつまんないと言っていい。言っていいんじゃないかな。言ってもいいですよね…?(気が弱い)